鷲田清一『感覚の幽い風景』

感覚の幽い風景

感覚の幽い風景


去年読んだ本の中で、ずっとひっかかっていたもののひとつが、
鷲田清一さんと伊東豊雄さんの対談のあるこれでした。


私の、私たちの感覚の矛盾を突かれたのにショックを受けて、
読後もふとしたときに思い出しては考え込んでしまうのです。
ラップに包まれた食品を求めながら、地べたに座り込んでも平気な若者たちの現象。
そんな矛盾が私にもあると思っています。
例えば平坦な道を好んで歩き、交通機関を利用して移動しつつ、
会社帰りにジムで走ってすっきりする気分とか。
ヨガのポーズで使わない筋肉を刺激したあとの心地よい痛みだとか。
温度湿度が管理されていたり、専用のウェアに着替えるという正当な理由もあるにはあるのですが、
同じ身体なのに生活の動きとトレーニングの動きが切り離されている状況は、
決して健康的だとは思えないのです。
もちろんスポーツを好んでいる方は別です。
でも私はスポーツするのが苦手。走ってるのは自分に課している試練みたいなところがあります。


『感覚の幽い風景』でも、優れた洞察力で主に身体における感覚の矛盾が指摘されていきます。
その皮肉な切り口を読んでくと、虚飾に満ちた現代の感覚のことで頭がいっぱいになってしまう。
そこから私たちはどこに向かって行くのか、
どうやっていまの現象を回避するのか、そもそも現代の感覚は否定されているのか…。
答えのないところでずっとぐるぐる回りつづけているのです。


これも去年読んだ『住宅の射程』ですが、最後の章に《森山邸》を見学した伊東豊雄さんが登場します。

住宅の射程

住宅の射程

もちろん西沢立衛さんが設計した住宅を評価しつつも、
どこか違和感を感じている伊東さんに私はひっかかってしまいました。


そして直島でみたSANAAの建物や、講演をきいた石上純也さんのプロジェクトに心地よさを感じつつ、
果たしてそれが正しい心の動きなのか、とまどう気持ちも起こるのです。