佐藤真監督の訃報

http://www.sankei.co.jp/culture/enterme/070905/ent070905000.htm

相変わらず書きかけのエントリーを残したままになっているのだけど、
どうしても書かずにいられない出来事を知ってしまったので。


数ヶ月前に観にいった映画「エドワード・サイード OUT OF PLACE」。
そこで舞台挨拶に来られていたのが佐藤監督だった。
http://d.hatena.ne.jp/syn_chron/20070617#1182188224
私はこの監督に関して詳しくないし、他作品を観ているわけでもないから、
訃報について言及するのはふさわしくないかもしれない。
でも舞台挨拶の際に話されていた次回作のことは頭に残っていた。
表面的には単一民族国家で平和に暮らしているようにみえる日本人だけれど、
深いところではアイデンティティの揺らぎの中で自己を探し求めてる。
そんな世相をテーマに撮りたいとおっしゃっていたのに。



鬱病について。
私は患ったことがなく、ここからは患者の方に対して無神経なことを書くかもしれない。


私が10代にかかる前後から、家族に患者がいた。
小学生のときに自宅にあった病気に関する本を隠れて読んで、
そこに書かれていた、鬱病は遺伝性があるという記事にショックを受けたのだった。
遺伝子がどうのというのではなくて、
気質が似ていたらその可能性が高いのは当然のことなんだけど。
自分が患者と似た性格であるのはよく分かっていたから、
10代の人生の選択肢は、その可能性から離れることがいつも頭にあったんだと思う。
家の中にこもるぼんやりとした影と、世間には隠している後ろめたさと、
その間の通学の行き来。ずっとはがれない不安。
その頃には誰でも読む小説の有名な台詞の言い換えが、私の信条だったのかもしれない。
「精神的に○○○のないものは、馬鹿だ」


大学生のときに、とても親しくしていただいたOBがいた。
読書や映画の話も目的地のないドライヴも楽しかったのに、
残念だったのはその傾向にあった人だった。
今でもよく思い出すのは、モーニングの席で見せられた首もとの紐痕と、
後部座席に積まれた薬袋の束。
それに関する話をききながら、私の気持ちが冷えきっていくのを離れた目で感じていた。
いつも不安に呑み込まれないように意地になっていたから。


そして随分時間が経った今でも、そのどうにもならない意地がときどき顔を出す。
たとえば絲山秋子さんの『逃亡くそたわけ』。
読みながら本を投げつけそうになってしまう衝動が起きてた。
絲山さんの本に良い感想が書けないくせに全作品近く読んでしまったのは、
読むことで自分のバランスが保てるからなのかもしれない。
平静なふりをしている自分自身に、やっと本心を突きつけられるのかもしれない。
それでも私はならない。病気にはならない。


監督の死因を知って、なおのこと次回作をつくりあげてほしかったと思った。
私なんかとはプレッシャーの度合いが違うのだろうけれど、
舞台挨拶のあの淡々とした理知的な話し振りの、そのままの人でいてほしかった。
訃報の記事を静かな目で読んでいたつもりの私も、
今日一日、胃腸の調子を崩してる。不安定な自分がくやしい。