「我が文明:グレイソン・ペリー展」(金沢21世紀美術館)

日が落ちかかった頃に21世紀美術館へ。
日比野克彦さんの「明後日(あさって)朝顔プロジェクト21」のため、
外壁には朝顔の蔓が並んでる。
また明日朝来ようと思いながら、企画展に向かう。
http://www.kanazawa21.jp/exhibit/perry/index.html


グレイソン・ペリーについてはほとんどなにも知らず、興味があったわけでもない。
でも今までこの美術館の企画展で開催当時は関心がなくても、
後になって観ておけばよかったと思うものがいくつもあったから、
これからの展覧会はできるかぎり見逃したくなかった。


会場は版画、写真、キルト、ドレスなどで構成されていて、
特に中心になるのは壷。たくさんの壷が並んでいた。
そしてそれらに描かれるのは暴力、性差、地域差への抵抗。
ヘンリー・ダーガーからの影響もみられるようなファンタジックな画風なのに、
表現されている内容は辛辣で、しかもとても強い。
なのにそれを目の前にしている私自身に熱い気持ちはなく、
彼の作品を見つめれば見つめるほどはね返されてしまう感じがする。


その点、私が分け入れたような感覚があったのは展示室3の映像作品。
“2つの作品を制作するグレイソン・ペリーのタイム・ラプス・フィルム”で、
時間は10分半。
壷作品の成形から絵付け、コラージュを施し、焼成してから手直しをする、
という一連の作業風景を早送りで流した映像。
定位置に備え付けられたカメラはズームも引きもなく、
黙々と作業に没頭するペリーの姿を映し出している。
流れるような旋律の、静かなピアノ曲とともに。


(ここからは私の気持ちをうまく表せるかどうか分からないけれど。)
この作品展全体を通して感じるのは、しばしば性器が象徴的に登場してること。
壷に描かれ、ドレスやキルトにアプリケされ、
最後の展示室では全裸のペリーがラップを踊る映像が流れる。
それをこうやってわざわざ書いてしまうことが既に過剰意識が働いてるかもしれない。
でも淡々とそのような作品を見つめられる自分に気付いて、
しみじみと年齢を経てきて良かったなあと考えてしまう。
ふと頭に浮かぶのは、中学生のときの苦しかった読書体験で、
坂本龍一好きから『E.V.Cafe』を読み、
次に『限りなく透明に近いブルー』に興味を持って手にとると、
あまりにもえげつない世界に嫌な気持ちになった。
つづく『POST(ポップアートのある部屋)』にも同じく。
EV.Cafe  超進化論 (講談社文庫)限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)ポップア-トのある部屋 (講談社文庫)
もうこれらを再読しようとは思わないけれど、
あの苦々しい時期が遠くに行ってしまって良かった。


図録の表紙の紙質は、ぱっと見るとクロスかもと思える。
発色がきれい。
ペリーの女装する意義は、作家としての態度とリンクされる意図があるのを知る。